
一、関への移住と小庵の建立
関善光寺の正式名称は「妙祐山宗休寺(みょうゆうざん そうきゅうじ)」といい、天台宗安楽律法流の寺院です。
甲州の武田信玄公が没し甲府城が落城すると、その家臣であった広瀬利広は逃げ延び、関村(現在の岐阜県関市)に移り住んで下九日町(現在の相生町)に居を構えました。
その後、5代目に当たる広瀬新太郎利忠は、代々の霊を葬るための寺院建立を念願とし、延享2年(1745年)に日吉ヶ丘の地に小庵を建立しました。
広瀬新太郎利忠
二、宗休寺の誕生
当時、新しい寺院の建立は禁止されていたため、利忠は庵室を正式な寺院にしようと廃寺を探していました。
宝暦4年(1754年)、不破郡青墓村にある円興寺の末寺で、荒廃していた無檀家寺院「竹本院」を見つけ、公儀寺社奉行から引寺の許諾を得ました。
竹本院には山号と寺号がなかったため、利忠の祖父(歇山宗休居士)と祖母(慈岳妙祐大姉)の法名から文字をとり、「妙祐山宗休寺竹本院」と名付けました。
智堂和尚
三、智堂和尚と阿弥陀如来三尊の請来
小庵の建立後、住職が不在だったため、可児郡御嵩の願興寺から同寺出身の智堂和尚が紹介されました。
利忠は寛延2年(1749年)、日吉ヶ丘周辺の田畑や山林(1町5反2畝27歩)を寄付しました。さらに宝暦3年(1753年)には、智堂和尚の仲介により、下総国印旛郡和泉村の泉倉寺から丈六の阿弥陀如来三尊をお迎えしました。
丈六阿弥陀如来三尊
四、本堂(現在の大仏殿)の建立
宝暦5年、本堂建設に向けて近郷からの寄進や親族の助成を受け、敷地内の岩山を切り拓く工事を進めました。
しかし宝暦7年8月17日、工事半ばで利忠が亡くなります。6代利謙も早世したため、7代利香がその志を継ぎ、宝暦9年(1759年)8月13日に入仏供養を行いました。これが現在の大仏殿です。
妙祐山宗休寺本堂
五、信州善光寺ご開帳と門前の整備
寛政6年(1794年)から10年まで信州善光寺如来が諸国をご巡行開帳した際、寛政10年4月23日から29日までの7日間、宗休寺でも信州善光寺の秘仏「一光三尊仏」が開帳されました。
境内が狭かったため、別当は広瀬家に滞在し、血脈授与は春日神社(大雄寺)で行われました。期間中は大雨が続いたにもかかわらず連日多くの参拝客が訪れ、境内は泥田のようになったと伝えられています。
これを機に、毎月15日に本堂で念仏講中が集まり百万遍大念仏を行うようになりました。寛政12年には関領主・大島公から境内地が寄付され、狭かった門前の道路や周辺の土地も買い上げられました。道幅6間の大通りとなり、松や桜の並木、石垣が整備され、本堂の屋根葺き替えも行われました。
六、ご写仏拝受と善光寺堂の起工
信州善光寺のご開帳で血脈を授かった後、8代利禎と源四郎の2名が信州善光寺へお礼参りに向かいました。その際、上野輪王寺公澄法親王のご持仏であった赤栴檀(しゃくせんだん)の一光三尊ご写仏一体をはじめ、香炉や唐数珠、等順大僧正の肖像画を賜りました。
文政元年(1818年)、近郷の念仏講中は、拝受したご写仏を安置するために、信州善光寺を模したお堂の建立に着手しました。
等順大僧正肖像画(善光寺大勧進所蔵)
七、善光寺堂の完成と文化財指定
地築き(地鎮工事)が始まると多くの人々が集まり、文政7年(1824年)には練屋平六・鉄屋与蔵・古川屋小兵衛・松島屋久兵衛らの世話により石垣が造られました。石のひとつひとつには施主の名前が彫り付けられています。
多くの寄進を受け、文政8年3月に棟上げ、文政10年3月に「善光寺如来堂」として完成しました。翌文政11年3月10日〜12日には入仏供養が行われました。
天保5年(1836年)には大仏殿と本堂を結ぶ渡廊が設置され、明治44年には屋根の葺き替えを実施。昭和26年(1951年)、この善光寺堂を「本堂」とし、旧本堂を「大仏殿」と改称しました。両建造物は昭和50年5月に関市の指定文化財となっています。
善光寺堂[本堂]
関善光寺では随時、各種祈願、供養を執り行っております。
お気軽にお問い合わせください。また、ご希望の場合は予約をいただければ無料で法話をいたしますのでお気軽にご連絡ください。
護摩祈願、厄除け祈願、安産祈願、子授け祈願(子宝祈願)、心願成就、交通安全、車両安全祈願、学業成就、合格祈願、病気平癒、商売繁盛、事業繁栄など
※上記以外のお願い事でも御祈願できますのでお気軽にご相談ください。9時から16時まで